郡力子は、蒋介石のメディァ対策責任者としてスノーに便宜を図り、毛沢東と共産党の評価を毛沢東と共産党のイメージはすっかり浄化されていた。
このあと一〇年にわたって、毛沢東は落介石から割り当てられた支配地域の首都延安で暮らし
た。毛沢東が延安に入城したのは、 一九三七年元旦である。巨大な城門が堂々たる扉を静かに開
き、共産党軍兵士の隊列が黄色い大地の果てまではるかに伸びる広い道を踏みじめて城門をくぐっ
た。古都延安(その名は「延伸安寧」を意味する)は、町をぐるりと囲んで見下ろす黄土丘陵の背
をつなぐように築かれた高く分厚い城壁に守られ、銃眼の開いた胸壁には荘重な武人の風格があっ
た。青く高い空の下、凛と乾いて冷たい大気の中にひときわ高くそびえるのは、 一〇〇〇年前に建
てられた九層の宝塔である。宝塔の下方には、大小の廟宇が断崖に貼り付くように並んでいる。さ
らに下方へ視線を転ずると、泥で濁った延河が、唐代の詩人杜甫にちなんで名付けられた杜甫川と
交わって一本になり流れていく。杜甫は延安の有名な牡丹を愛でるために何度もこの地を訪れたと
いヽつ。延安は、文化の中心であると同時に商業活動の中心でもあった。この地域では油田が発見されて
いた。共産党軍はスタンダード石油が建設した居住地域を接収し、スペインのフランシスコ会が建
設した数々の堅固な建物も接収した。その中には竣工したばかりの大聖堂もあり、ここでは党の重
要な会議が多く開かれることになった。住宅の不足は、地元住民、とくに比較的裕福な住民の多く
が数百軒の家を残して逃げていったことで、さらに軽減された。空き家の中には大きくて美しい建
物もあった。毛沢東は、鳳凰山と呼ばれる場所に建つ豪邸のひとつに移り住んだ。